WLP代表取締役社長石田二郎代表挨拶

貴方だけのオーダーメイド留学をご提案。
カウンセリングから渡航中まで一貫サポートいたします。

代表挨拶MESSAGE

代表挨拶Message

石田二郎

株式会社WLP
代表取締役社長
石田 二郎

2012年の創業以来、お客様にご提案してきた一つひとつが常に古い常識として世の中に浸透しました。

私たちは、常に『新しいソリューション』を創造し続け、留学事業のリーディング・カンパニーを目指し活動してきました。
常に留学希望者の立場で「こういう留学生活をしたい」にどんどんお応えしていくことで、ソリューションできる幅を常に拡大しております。

留学業界は日本人のスピード感あふれる心境の変化で次々とニーズが多様化しております。
WLPは「ダイバーシティー戦略」集団として、お客様である個人の皆様、企業の皆様に貢献していきたいと考えています。

ぜひ、WLPの創り出す「新しい留学ソリューション」に、ご期待ください。

 

代表の過去から今への想いHistory

幼少期

1979年8月19日に東京の吉祥寺で産まれる。
幼稚園の時代。
記憶はほとんどないのですが、極めて平和だったのだと思う。

学生時代

小学生(7歳~8歳)の頃は、西武新宿線、東伏見のアイススケート教室に通う。エレクトーン教室などにも通う。その頃、数千人の大舞台でピアノを弾いた事は覚えている。小学校低学年の時は三鷹の水泳教室に通う。初めての本格的なスポーツとの出会いで、その楽しさから記録的な速さで進級していく。特に25M自由型のスピードだけは学年一。
25Mで15秒台ぐらいだったと思う。

当時、私の父親はラグビーをよく観ていて、私も一緒にみていたら、やりたくなってラグビースクールに通う。当時は身体も小さかったので全力で走っている人にタックルをする事で気合が入った。2年間続けた。その後の中学受験勉強の期間が始まるまで。

その後、両親と私で将来を考え、中学受験を意識。私は数々の学習塾に通う。一向に成績が伸びない。それは本格的に勉強するにあたり何からスタートしていいか分からなかったから。しかし、当時、合格率で有名な小規模校ながら超スパルタの学習塾に通い詰める。私の小学校4年最後の方での偏差値は40台だったのが最後は偏差値70くらいまで伸びた。そのスパルタ学習塾では「知ったかぶりとカンニング」この2点だけは特に注意されて、見つかった時には、クラスの生徒全員の授業が止まる。この学習塾はクラス一丸となって進行していくスタイル。特にカンニングの時は1時間くらい授業が止まってしまうので、他のクラスメートに迷惑をかけないように注意をしていた。クラスのチームに授業の進行が遅れたりと迷惑をかけないようにと意識するうちに仲間全員一体となって勉強を進めることで私立の中高一貫の早稲田中学校へ入学出来た。勉強も自分一人だけじゃないという責任感を教えて頂き、今でこそ、あの熟や先生には感謝している。

在学中には、日本の教育へ疑問を感じ海外へ関心を抱くようになる。中一のバレー部では、まだ身長が低くセッターのポジション。それでもベンチ入りではなく試合にもよく出ていた。中二からは当時とてもシンプルな競技に見えた陸上部に入る。小学生の時に培ったフィジカルが認められ1500mの選手に抜擢される。当時の早稲田中学の陸上部では都大会に出場した。中2では身体がまだ小さかったので、1500m走の試合の時は周りの速さに圧倒されながらも、ラグビー時代の根性を思い出し、ビリは逃れる。1500m5分を切っていたのは覚えている。中学三年生では、ゲリラ的に行われる実力テストというもので、数学は300人中で最高得点を上げ、トップとして表彰される。

また、高校の時にはヤンチャな気持ちがピークだった故に「喧嘩で負けたくない」この気持ちだけで、下北沢の山木ジムというキックボクシングジムに通う。かねてから興味があったので、このタイミングで格闘技の世界へ踏み込む。

そんな波乱万丈な中高の人生でしたが、大学進学には成功し、経済学を学び企業経営に興味を持ち始め、休暇を利用しては海外の文化や外人のライフスタイル、ビジネスの考え方を理解したく一人旅を繰り返す。授業のオフタイムは常にトレーニングをしていたのは誰もが認めている。現在も変わらない。また、地元の仲間たちで作ったインカレのサークルでは2000人規模のイベントなどを今は無きベルファーレなどの大規模クラブで打っていた。卒業が2年後ぐらいに見えてきた頃には、伝統派空手から始まり、極真空手に入門していた。スポーツは勿論、武道としての礼儀を修得していたため、就職氷河期ながら就職に成功。当時は大学の仲間達にも空手道を教えていたくらいだ。勿論、試合なども多数経験。

社会人時代

何とか必死の思いで就職した、某大手自動車メーカーでのSEの業務が初めての正社員の仕事だった。この頃、今でこそ安定した需要のある、生きた化石言語のCOBOL言語を修得。また、関連会社のISO9001取得のコンサル業務を行っていた。ここでの業務を皮切りに、様々な業界・業種を知るために医療機関専門の広告代理店や人材派遣業の営業を経験し、最後はWEBプロモーションの世界に身を置いた。当時の営業では、ほぼ、どの会社でもテーブルには、タウンページと受話器だけでテレアポからの訪問という流れが主流で、精神力と話術はかなり鍛える事が出来た。1日200件の打電数が平均。パソコンは3ヶ月営業を達成してから使用できる、ストイックな時代を経験。各会社、営業で1位の数字を取るようにしていた。独立は新卒の頃から考えていたので、営業のモチベーションになった。

修行時代

30歳の時には組織の中では自分が出来る事には幅があることを感じ、今まで築き上げた社会的立場、会社での立場を全て捨てて退職。その後、かねてより、仕事の合間のリフレッシュのような感覚で半端に格闘技をやっていた自分に克を入れるべく、裸一貫で「一生に一度は」の想いで宛てのない単身ムエタイ武者修行の旅に出る。

世界チャンピョン輩出支部の新極真空手城南川崎支部の支部内トーナメントの無差別級試合で準優勝に終わってしまったことも修行要因の一つ。

ボロボロの1ヶ月5,000バーツ(¥15,000)のコンドミニアムに住み込み、一から家具を揃えたり、人脈を作ってみたりと海外生活を初めて経験。ここで、日本とはまったく違ったホスピタリティーや考え方、また、ムエタイのジムで出会った欧米人の考え方、180度違う考え方に影響を受ける。半年間の修行を経て、日本で早く働きたいという想いにかられ、帰国。

起業

ムエタイ修行を通じて異文化との交流や本気で何かになりきる事、海外での生活経験に重要性を感じ、帰国後に語学留学や様々なコンテンツ留学の会社を起業。
起業してから、半年間は全くお問い合わせが来なくて想像以上に集客の厳しさを知る。ランニングコストも尽き果て、ヤフー、グーグルに広告費を支払うために、派遣会社の派遣社員とWLPの二足の草鞋を経験。

また、2年後にはタイでの政変のデモで、会社は絶望的な状況に陥る。
その時にサラリーマン時代の他社の広告運用経験と自社の広告運用経験を活かしてスタートアップ企業のSEM事業を開始。
その後は、メルボルンやバンクーバーなどの現地企業や学校との提携なども始め、今でこそ、大手と変わらない紹介国や学校を持っている。
コンテンツのバリエーションに関しては自信は確信。

この過程を経て、常に「新しい」を許容して、必要なものはすぐに取り入れるように臨機応変の社内体制を完備。
時は平成から令和へ、アイデアの先駆け企業と認められるために、常に試行錯誤の日々を送る。現在もネタは沢山ありますが、公表は伏せている。
現在も1年に一度は当時の決意や魂を磨くべく、1カ月間は現地でムエタイ修行を毎年して起業時の勢いを掘り返している。「昔輝いていたではなく、今こそ輝き続ける」を座右の銘に

皆様には、留学や弊社の作成したサービスを通じて更なる向上をしていただきたく、日々経営に奮闘しております。

デジタルもアナログもWORKOUTも。LET’S ENJOY!
 
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